著作

『大奥開城』

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帯の言葉から
江戸城無血開城を成し遂げた女がいた。大奥上臈・土御門藤子の試練の道中。

裏表紙から
慶応4年、鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍・徳川慶喜が江戸へ逃げ帰ってきた。 慶喜追討令が出され、江戸へ向かって官軍が進発しようとしている。 このままでは、江戸が火の海に包まれる。 慶喜から朝廷との仲立ちを頼まれた皇女和宮の密命を受け、大奥上臈・土御門藤子は、伊賀忍者たちの警護の下、一路京へ向かう。 気鋭の女流作家が幕末に隠された歴史の謎に迫る!

ブログ「松の間の床の間」から
『大奥開城』の主人公・土御門藤子(つちみかどふじこ)の史実部分について、「歴史読本」の2008年7月号「徳川将軍家の正室」特集の中で、6ページで書かせてもらった。タイトルは、「土御門藤子の旅路 徳川家存続・江戸無血開城を成し遂げた女たちの戦い」。
土御門藤子という女性は、京都の陰陽頭という公家の姫として生まれ育ち、和宮が江戸城大奥に降嫁する際に、上臈という側近の侍女として付き従った。
幕府崩壊時、土御門藤子は二度にわたって、官軍への和平交渉に立った。その旅に伊賀者という忍者の末裔が警備についていったのは事実だ。陰陽師の姫と、忍者の末裔という取り合わせが面白いなと思い、それが小説執筆のきっかけとなった。
琵琶湖畔の草津から西は、官軍によって関東の男の入京が禁じられ、藤子は伊賀者たちと別れ、実家の土御門家から迎えに来させて京都に入った。その辺りの ことも記録として残っている。その程度のトラブルはあったものの、現実の藤子は御駕籠に乗って、無事に二度の旅をまっとうした。
でも「御駕籠に乗って粛々と往復しました」では、小説にならないし、だいいち緊張感が読者に伝わらない。いくら御駕籠に乗っていったとしても、徳川家の 使者として官軍の進軍に突っ込んでいくのだから、そうとうの緊張はあったはずで、そのハラハラドキドキ感を、現代の読者に伝えるためには、多少、大げさに 書かなければならない。そのためにフィクションが必要になる。
ただ史実としては、藤子の本当の手柄は、旅をまっとうしたことよりも、京都の公家社会での裏工作だと思う。徳川家存続の願い書を朝廷に渡す工作。史実だけ取り上げてみても、とても面白い女性で、土御門藤子という名前のイメージもいい。

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