著作

家康の子

家康の子 表紙

帯より
徳川家康の子に生まれ、11歳で人質として豊臣秀吉に差し出された於義丸。二人の天下人に命を預けた男が見た覇権の真実!
福井藩祖となった結城秀康の波瀾万丈
縄田一夫氏「生きることがむずかしい乱世に、生命の灯を燃やし続けた人たちの物語を手にし、私は涙する他なかった。」

帯裏より
家康は扇の先を、於義丸に向けた。
「よいか、於義丸。そなたは人質になる限り、殺されることになるかもしれぬ。まして羽柴どのの養子になるのだから、わしには、かばえなくなる」
さらに言葉に力を込めた。
「生き延びられるかどうかは、そなたの運次第だ。だが生き延びた暁には、そなたには、とてつもない力が備わるだろう。わしに命を預けてくれる家来ができたように」
於義丸は衝撃が大き過ぎて、何も言えなかった。もし殺されそうになっても、父は見捨てると宣言したのだ。

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8月10日付福井新聞より
二年ほど前に、お茶々の乳母を主人公にして『めのと』という本を出した時に、結城秀康という人物を知った。関ヶ原の合戦の前に、石田三成や大野治長を助けたと知り、男気のある人だなと興味を持った。
その後、ひょんなことから、福井県庁の方に「何か福井に関わる小説を書きませんか」と水を向けられ、即座に「結城秀康でよければ」と応えた。
だが新聞連載が始まる前に、記者の方から「結城秀康で大丈夫ですかね」と、不安顔で聞かれた。戦国武将らしい雄壮な合戦シーンもないし、若死にしたし、地味すぎないかと心配してくれたのだ。たしかに、それが結城秀康のイメージだったのだと思う。
ただ秀康は、徳川家と豊臣家を結ぶ歴史の中枢にいた人だし、私としては、むしろ華のある人だと捉えていた。
普段、東京で暮らしているので、地方新聞に小説連載しても、読者の顔が見えてこない。しかし連載が始まって間もなく、講演会で福井に出かけ、大きな手応えを感じた。その時に、たまたま出会った方の中で、半数以上が「家康の子」を読んで下さっていたのだ。
それはそれは嬉しかったし、福井藩の最初のお殿さまが、どんな人だったのか、みんな知りたいんだなと思った。ならば地元のためにも、ちゃんと描いて差し上げたいなと、思いを新たにした。
書き進んでいるうちに、意外なことも明らかになった。家康の重臣だった石川数正が、徳川家から出奔した理由は、いまだ謎とされている。しかし秀康を中心に据えて考えると、謎は氷解する。佐々成政が冬の立山連峰を越えてまで、同盟を求めた時に、家康が断った理由も、秀康の存在を外しては考えられない。
秀康は顔がギイという魚に似ていたから、家康に嫌われたなどと言われるが、この父子関係は、それほど単純なものではない。家康と同じように子供時代に人質に出て、家康の最大の武器である忍耐強さを、だれよりも受け継いだ秀康。
この二人の並ならぬ父子関係を、さらには人質として運命をともにした少年たちとの友情を、今回、表現できたのではないかと思う。執筆の機会を与えてくださった方々や、最後まで応援していただいた読者の皆さんに、心から感謝の意を表したい。

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東京新聞2011年10月30日
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