海坂書房時代小説倶楽部
●歴史小説を読む 雨宮由希夫

●『女たちの江戸開城』 
平成18年9月24日


書名『女たちの江戸開城』
著者 植松三千里
発売 双葉社
発行年月日 2006年9月20日
定価 1,700円



慶応4年(1868)1月11日、鳥羽伏見の戦いに敗れて逃げ帰ってきた十五代将軍徳川慶喜はすでに大阪脱出の当時から恭順を決意していたとする説もあるが、慶喜がまず行ったことはおのれ自身の命乞いのための工作であった。

当時江戸城本丸大奥には、孝明天皇の実妹で公武合体の為に徳川将軍家に降嫁し十四代将軍家茂の御台所となり今は未亡人の皇女和宮がいた。江戸に着くより早く慶喜は和宮にすがって、命乞いをしているのである。同じく皇族の輪王寺宮も慶喜の助命嘆願に駆り出されたひとりだが、輪王寺宮が和宮の一件を知ったのはずっと後の2月半ばのことであった。大奥の女性にすがっての実に姑息な手段での命乞いはさすがの慶喜も公にはしたくなかったのだろう。

 本書は、和宮の名代として、二度にわたり使者となって、東海道を上下した実在の人物・土御門藤子をヒロインとした歴史小説である。

 和宮より5歳年上の27歳の土御門藤子は和宮の降嫁に際し京都からついてきた侍女で、当時、大奥最高位の上臈の地位にあった。1月12日早朝、江戸城に入った慶喜が和宮に会いたいとの意向を持っていると藤子は聞かされる。尋常でない事態であることを察知した藤子は直感的に決断し「朝敵になど、けっして、お会いにならしゃりませんように」と和宮に告げる。しかし、和宮は朝廷との頼みの綱である和宮に何としてでも会いたいという慶喜の執拗な願いを受け入れ、1月15日、ついに慶喜と対面する。やがて、和宮の名代として使いすることが決まった藤子を前にして慶喜は語る。「最後の将軍徳川慶喜は幕府を潰し、戦場から逃げ帰った情けない男だといわれるだろう。ただ、これだけは言われたくない。徳川慶喜は内乱を引き起こし日本を破滅させたと。唐天竺の轍を踏んではならない。私は命など惜しまない。徳川家の存続のために、私はすべての持ち駒をかける。和宮様も大切な持ち駒だ。簡単に手放すわけにはいかない」と。藤子は慶喜の真意を知った。徳川家の命脈だけでなく、和宮の運命をも握らされたのだ。やはり慶喜は噂どおりの策士だった。

 藤子の危険を犯しての使いは都合二回に及ぶ。一回目は1月26日に出発し、2月30日に帰府している。和宮の名代・正使としての藤子らを警護するための添番や伊賀者など多くの供侍を従えての道中である。上背があり目の鋭い男で、 無礼な口の利き方をするが腕が立つ伊賀者の仙田九八郎も供侍のひとりである。

江戸を出た藤子は一日も早く役目を果たすべく先を急ぎ、雪の箱根越えを敢行する。深い積雪の山道を和宮の名代の藤子が駕籠を降りて歩く。雨具の用意のない藤子に仙田は自分の道中合羽を渡す。藤子は突風が吹き足が凍え転びそうになるたびに仙田に抱き留められ、男くさい年下の伊賀者の仙田に気をひかれる。

草津宿。ここから先は官軍により関東の男の入京が禁じられ、警備の男たちと別れねばならない。藤子の胸にせつない思いが湧きあがる。

「朝廷と徳川家が手切れになれば、和宮の文を届けなければ、大勢が死を選ぶのだ。江戸に官軍が攻め入って、江戸の町が火に焼かれ、仙田など真っ先に、敵陣に切り込んでいくにちがいない」。旅の途中から、この男・仙田を戦場に送りたくなくて、藤子は京都に向かったのだ。

待たされることしばし。慶喜が謝罪を示せば、徳川家存続を認めるという若い帝(明治天皇)の言葉の書き付けを手にして、東海道を下る。

帰路の品川で、「明日からは互いに手の届かない遠い存在となる。できることならこの男と、もっともっと旅を続けたい」と藤子は思う。雪の箱根越えで異性として意識してより、藤子は仙田の姿をいつも目で追っている―――。  

作家は本書は「歴史の中から立ち上げた物語」であるとしているが、動乱の時代とはいえ、本来ありえない伊賀者と大奥上臈の恋が面白い。

和宮は西南戦争のあった明治10年(1877)9月2日、療養先の箱根にて逝去しているが、「和宮の最後を看取った側近の中に、土御門藤子と仙田九八郎がいた」と作家は書いている。二人の恋は成就したのだ。

和宮について書かれた歴史小説の先駆としては、有吉佐和子の『和宮様御留』と宮尾登美子の『天璋院篤姫』などがあるが、和宮の遣使について、有吉佐和子の『和宮様御留』は「徳川家瓦解は歴史の波の行くところであって、和宮の存在は無関係であった。和宮が嘆願しなくても、維新政府は諸大名を華族として遇したくらいであるから、徳川宗家を断絶させるはずはなかった」とにべもない。

いつしか、作家の描く慶喜像・海舟像に必ずしも同意できない私は慶喜の命乞いの進展と主戦派として斥けられた小栗上野介の生き方を読み比べていた。和宮が天璋院篤姫と並んで慶喜と対面した日と同日の1月15日、小栗上野介忠順は陸軍奉行並兼勘定奉行の職を免ぜられている。主戦か恭順かの議論は江戸城内において1月13日から21日までの9日間に及んだが甲論乙駁して結論が出なかったと史書は記しているが、慶喜の心はまったく恭順であり、心ある幕臣たちは真意を打ち明けない身勝手な慶喜に振り回されて悲運の道を歩いた。

最後に蛇足ながら。誤植が一箇所あり、再版時に訂正してほしい。

「和宮は玉島という侍女を、東山道鎮撫総督、岩倉具視のもとにつかわした」とあるが、「具視」ではなく、「具定」がただしい。閏4月6日、小栗上野介は岩倉具定配下の原某に斬首されている。